「パブリック・ストリップ 〜赤城文の25年間を振り返る〜」
Share
2024年の1月から始まった、ロリータ通販RonRonさんの「kawaii通信」の中での赤城文の連載。
気づいたら、あと2ヶ月で連載から2年を迎えさせていただくそうです。
選んでいただき、そして自分で選んで、気付いたら時間が経っているという事実は紛れもなくこの上なく幸せです。
私はクラシックバレエを12年続けましたが、大人になればなるほど、物事を長く続ける難しさを感じています。
だからこそ、一年以上もこのように理想のお仕事を続ける事ができていて本当に嬉しいです。
夢だった文章のお仕事をこうして続けさせていただき、ほぼ毎回ハードボイルドな内容にも関わらず、柔らかいキャッチフレーズと素敵な見出し画像を作成していただいた上で、内容は変更せずに連載を続けさせていただいております。
このコラムに関わる全ての方に改めて感謝申し上げます。
そして、毎月赤城文のコラムを楽しみにしてくださる読者の皆様方、本当にありがとう。
病める時も健やかなる時も、コラムの題材が浮かぶ時も浮かばない時も、筆が進む時も進まない時も、このコラムを連載させていただいていること自体が、私にとってはずっと楽しくて幸せな事だと、この執筆サイトを開く瞬間に毎回感じております。
11月28日に私、赤城文は25歳になります。
ステージに立ち始めてからは約8年。
かなり長く応援していただいているファンの方もいらっしゃいます。
よく、ここまで生きたと思った方、
赤城文がもうアラサーになるのかと思った方、まだまだ若いじゃんと思った方、時の流れを感じている方、色々な方がいらっしゃると思う。
私は歳を重ねることに抵抗はない。
大人になる、時を進めることでしかアップデートできないオールドタイプの人間だ。
その分、退化することはないと信じている。
でも、死ぬのは嫌。
死に近づいていると思うと、やけに憂鬱になる。
今年は4年間のミレディ♡チャームでのプロデューサー兼メンバーという長くてあっという間な時間が幕を閉じ、ソロ活動が始まったもののライブ活動はセーブ中。
私は誕生日に予定がなかったり、誕生日に何か悲しいことが起こると、ついつい「誕生日なのに…」と思ってしまう。
四年連続行わせていただいた生誕祭も今年は開催する予定がないし、せっかくなので 25歳を記念して生い立ちを語らせていただこうと思う。
こんな機会はなかなかないのと、いつも通り、いつも以上に長くなりそうなので時間がある時に読んでください!
長い、長すぎる(十万石まんじゅう)、私の生い立ち。
でも全部読んでほしい。私の波瀾万丈でまっすぐな人生を。
これは悲劇でも喜劇でもなく、ごく普通のお話。
誰かが笑ってくれて、共感してくれたらそれで良い。
もう何も辛い事は何もない。
読み物として、読んでください。
物書きは人生のストリップだって大好きな室井佑月先生が言ってた。
ZINE「飢餓の標本」で何度脱いだか分からない。
でも、ここまで脱ぐのは初めてかもしれない。
他人から見たら小さな事だけど、少しは覚悟がいる。
でも、意味のあるストリップショーが目の前で起こるなら私は脱ぎたい。
皆様いつも本当にありがとう!(この先の文章を飛ばす方々の為に先に言わせて)

【幼少期】
埼玉県で生まれ育ち、2歳ぐらいの時に東京に移り住んだみたいだけれど全く記憶がない。
本来ならプロフィールに埼玉県出身と記載するべきだけれど、記憶がないので東京都出身と記載している。
何故か、赤ちゃん系(赤ちゃん系とは)の雑誌にモデルとして掲載されていたそうだけれど、それもよく分からなかった。
当時の家の間取りやインテリアも紹介されていた気がする。どういうこと。
池袋がやけに安心するのは、埼玉の風が吹いているからだと思っている。
大宮に行くと池袋の濃度が100倍になって空気が美味しい。
tiktokで流れてくるy2kファッションが生易しく見えるから、みんなも大宮に行ってみて。
駅の中の謎の豆の木のオブジェを見ると安心する。
家族及び、プライベートな事にはあまり触れてこなかった。私生活は私生活で大事にしたいから。
でも少しだけ話そうと思う。
ブラジル音楽を筆頭にボサノバやシティポップやジャズ、細野晴臣や大滝詠一や筒美京平と小説と絵画が好きな父。
とにかく堅いし、さす九(さすが九州男児の略)。
ハッキリとした物言いでよく言えばさっぱり、悪く言えば厳しい。リアル碇ゲンドウ。
身内の前だとたまに凄く陽気になる。
性格の基盤は父にそっくりで、私も非常に気難しい。
中森明菜やレベッカやバービーボーイズが好きな母。
性格は超が付くほどのプリンセス気質。
ちなみに母の母(祖母)もプリンセス気質。笑い方はオホホ。
昔、お洋服を買ってもらった時にお礼を言ったら「私の化粧品なんかよりもお安いご用よ」と言われた。
私も母の影響で中高生の時に上記のアーティストが大好きだった。
超気分屋、天真爛漫、繊細、明るいけど控えめ。
私が父に似ているせいか、母と過ごす時間の方が多い気がする。
幸い、母のお喋りで天真爛漫なところもブレンドされたので、そのお陰でなんとか。
このぐらいの時期から高校生の最初ぐらいまでずっと親に怒られていて、家の居心地が悪かった記憶しかない。
週末は美術館やブラジル系の音楽のライブに連れて行ってもらう事も多く、母がフランス語学校に通っていたので、そこで行われるイベントもよく連れて行ってもらっていました。
多分、一番最初に菊地成孔さんにお会いしたのがフランス祭。母曰く。
【幼稚園生時代】
何故かカトリック系の幼稚園に通わされていた。
お堅い幼稚園に通った理由は、小学校もしくは中学校でのお受験が目標だったんだと思う。
とにかく良い子に育って欲しい感じは覚えてました。
昔から真っ当な道を歩む素質はなく、幼稚園で配布されたキリスト系の絵本の磔の刑のページに興味津々。
教会でロザリオを手に持ちながらお祈りをしなくてはならない時間が設けられていたのですが、お祈りもサボりがちだった。
この頃の私は外では基本的に大人しく、体も弱くてとても小さい。
意思表示が苦手で、とにかくボーッとしていて、常にやる気がなかった。
赤色が好きで内弁慶でマイペースなところは変わっていない。
謎に女王様制度があり、決まってお姫様(女王様)になりたがる女は全てがゴツくて気が強い子だ。
女の子らしい女の子と女の子らしい遊びをしていたら、いつの間にか力いっぱい手を引っ張られて複数の女の子と共に家来の役割をやらされた。
この頃からずっと冷めていたので、そういう女子にいじめられても家であだ名をつけて呼んでいた。
中学校で女王と再会したけれど、明るいいじられキャラに転身していて彼女も学んだなと思った。
体が小さいせいで、男子からのちょっかいもしつこく、送迎のバスの席を変えてもらったり、トイレに閉じ込められた時も、シスター(先生)の戯言を思い出して「ほら、やっぱり神様なんかいないじゃん」と思っていた。
家で母親が沢山アニメを見せてくれて、セーラームーンとカードキャプターさくらとプリキュアとあしたのナージャが大好きだった。
あしたのナージャに憧れて、3歳からクラシックバレエを始めた。
この時から学校以外の世界で生きていく事を非常に大事にしていた。
お絵描きやリカちゃん人形やシルバニアファミリーやぬいぐるみが好きで、モーニング娘。になりたかった。
自分の事をキュアブラックだと思っていた。


リカちゃんショーにて。
小さい頃の写真はあまり持っていない。
【小学生時代】
内弁慶なのは変わらずで、この頃から勝手なイメージを持たれた挙げ句、素を出したら驚かれる流れを今と同じく嫌に思っていた記憶。
面白いと思っていないのにクラス全員で笑わなきゃいけない風潮に疑問を持ち、この頃から協調性は皆無。可愛げのない子供でした。
マセガキなので、かつて吉祥寺に存在したユザワヤに飾ってあった、プラグスーツの綾波レイのパズルを見たのがエロの目覚め。綾波レイが性の目覚め。
未だにショートカットで涼しげな顔の女性が大好き。
クラシックバレエに没頭していたけれど、「毒親ガリ勉目指せ中学受験」な学校だったので、家で我慢している分のストレスを発散させるガキが多くて小学校生活は非常に辛かった。
親にバレエのスキルや学力を周りと比較されて怒られるのも非常に辛かった。
日本舞踊や絵画教室や塾にも通っていて、習い事で忙しかった記憶。
小学3年生ぐらいの時は、親が応募したラジオのキッズパーソナリティに選ばれて、暫くラジオ局に通っていた記憶がある。
スタッフのお姉さんと母が父とロケに行って、水族館やキッザニアに行ったりラジオ局でお便りを読み上げていたはず。
その頃好きだった、木村カエラの「jasper」とチャットモンチーの「シャングリラ」を流していただいて、
ギャランティとしていただいたCDショップで使える金券で上記の2枚を買った。
これが初めて買ったCD。
ロケ地で母親がスイマーという雑貨屋さんで魔法ステッキみたいなボールペンを買ってくれた事が一番嬉しかったかな。
全体的に細かい記憶はあまりないかも。
この頃からクラシックバレエの発表会の配役などで、挫折やジェラシーや女社会の難しさを知り、今の競争心の無さと向上心の強さに繋がっている。
小学校の登下校のルートに変質者が多く、性的な事は子供と大人でするべきものなのかと勘違いし、認知が歪み始める。
だからこそ、大人にとって子供は見守るためだけの存在だと強く思う。それ以上何もするべきではない。
この頃、街中でスカウトされることも多かったので、当時は言語化できないけれど自分の少女性の自覚はし始めていた。
大人が思うテンプレートな少女だと思われているんだろうなと感じていた。
この時代の教師はまだコンプライアンスとか気にしていないので、おかしい教師ばかりで体調を崩して小学四年生の時だけ学校に行けなくなり、死ぬまでトラウマを抱えるハメになる。
隣の席のIくんが毎日一生懸命連絡帳を書いてくれていた。ありがとう。
Iくんとは6年間クラスが一緒だったのに、卒業する間際までお互いにその事実に気付かなかったね。
給食の時間に騒いだ生徒に「少年院へ行け!」と怒鳴ったり、男子を廊下に正座させて竹刀で叩いて「シャラップ!私は甘くないよ!」と怒ったり、いちいち女子生徒の頭を撫でる先生がいた。
愉快な仲間を紹介するぜ!といった感じの面々。
生徒も生徒で、とにかくいじめも酷いし、裏庭でテスト用紙に火をつけて燃やすし、教師の机に向かって牛乳瓶を投げつけたりもしていた。
何時代の何先豊の世代の生徒みたいに聞こえますが、ほとんどがガリ勉。
一方その頃、お家では「ちゃお」や「なかよし」や「りぼん」などの少女漫画を読み、東京ミュウミュウとシュガシュガルーンとしゅごキャラが特に好きだった。
でもマセガキなので病院に置いてあるジャンプの「To Loveる」のページだけ読んで、親に「涼宮ハルヒの憂鬱」のDVDと共にレンタルしてもらっていた。
父親から借りたipodに入っていた山下久美子の「赤道小町ドキッ」をひたすらリピートしていた。
この曲にMVがあったら、どんな映像だろうと想像していた。
これが最初の昭和の音楽と細野晴臣との出会い。
いわゆるミーハーなアイドルヲタクでもあり、48グループに非常に詳しい子だった。
AKB48を聴いている際、よく父親に「受け手ばっかりじゃダメだ。自分も発信しないと」と言われた。
普通にフライングゲット聴いているだけなのにごちゃごちゃ言われてイライラした。
それなのに芸能界は長らく反対されていたのもよく分からない。
あとは、メジャーなコンテンツは「綺麗事だらけで馬鹿らしい」という刷り込みもされていた。
未だに流行りについていけていないから、ワンテンポ遅れてあつ森にハマり狂っている。
そういう自分も早いところ達観し始めてしまっているから、「クラスの男子の中で好きな人を探すのは視野が狭い。世の中にはジ○ニーズのような男性もいるのに、クラスの誰々がかっこいいとか聞いてられない」と言って突然給食の時間に空気をぶち壊すこともあった。
まゆゆ推しのオネエ口調のSくんがやたら喧嘩を売ってきたが、卒業してからたまたま再会した時に流し目でこちらを見ながら「アラ、久しぶりじゃない」と喧嘩を売ってきた。
図書室で山本タカト先生がイラストを務めた「南総里見八犬伝」をひたすら借りていたら、クラスみんなの前で褒められて恥ずかしかった。
私は「玉梓」の挿絵にエロスを感じて借りまくっていただけなので、内容なんて全く読んでいない。
「皆さん。かいけつゾロリばかり読んでいないで彼女を見習いなさい」と先生は言っていたけれど、みんなの前で好きなエロ本をバラされた気分だった。
ちなみに南総里見八犬伝は全くエロ本じゃないです。
「ヲタクはキモい」みたいな事を平気で言うクラスメイトが多く、父に勧められた読書にハマって心の平穏を保っていた。
初めて意思を持って読んだ小説が、赤川次郎の「死者の学園祭」でした。
この本に出会って読書の面白さに気付いた記憶。
挿絵だけ見るとかじゃなく。
熱心に読んでいたら「本当、そういうの好きだね」と男子に揶揄われた。
多分、厨二病なのがバレていたんだと思う。
小中学生時代に読んだ本はあまり記憶に残っていないけれど、重松清の「疾走」も大好きだった。
自分の事、メカクシ団の一員だと思っていたんだ。
本当にやめてくれよ。

入学式にて
─────────────────────
こんな恥ずかしいところで終わると思っていなかったんだけど、25年を振り返るともなれば一度に書き切れる量ではなかった。
もっと早く振り返ればよかった。
長々とした人生の出だしを読んでくださりありがとうございました。
次回のコラムは「中学生編」からになります。
『今月のナンバー』
赤道小町ドキッ/山下久美子

小学生の時から両親や叔父の影響で自分の世代よりも上の楽曲を聴いていたのですが、恐らく一番初めに聴いた曲です。
この曲のおかげで昭和の曲を聴く事に抵抗がなくなったのかもしれません。
細野晴臣氏が作曲した曲なので、細野氏との出会いの曲。
「レトロ」とか「サブカル」とか「アングラ」とか日本ならではのべったりとした世界観の名前を知らなかった自分が、その世界観を探し歩くきっかけになった曲かもしれません。
私が歌謡曲らしい音楽を歌い、プロデュースしてしまう理由かもしれません。
本当に良い曲ですよね。声も歌い方も蜃気楼のようで大好きです。